2012年12月30日

おばあちゃんの台所と赤い薔薇

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今日も台所暮らしのおとめです〜♪

今年もあれれ〜って間にとうとう暮れて 

寒いことだし 

色々とご心配をおかけしたお詫びも含めて

何かあったかいお話でもしましょ〜か。。。

相変わらず長ったらしいので

御用とお急ぎでない方のために(笑)

写真は私の台所です♪ニ畳も無い小さなスペース

掃除が行き届いてないですね〜。ヤカン磨かないと(^^;)

調理器具とお鍋は釣り下がっているものでほぼすべてです。

あとはすり鉢とミキサー、小ぶりの冷蔵庫くらいかな〜

オーブンは最初から作り付けなので

ありがたく使わせてもらっております。

実は。。。オーブンはあるけど

電子レンジや電気釜はもっていません。

いえ、別にこだわっているんじゃなく

買う必要を感じなかったので未だに。。。

冷ごはんは蒸せば炊きたてのようになるし

独身時代からご飯はお鍋で炊いていました。

厚手のお鍋で炊くと 炊き上がりはお米が立っていて

好みのふっくらでしかもサラっとしたご飯になるんです。

本当は祖母がやっていたお釜で炊きたいのですが。。。

ホットプレートも中華蒸し器もすき焼き鍋も天ぷら鍋も

あったらいいな〜と思うのですが ものぐさなので

あるもので代用しています。それに色々道具を置いて

ただでさえ狭い台所のスペースが無くなるのがイヤです。

やっぱり私の中では

おばあちゃんの影響が大きく

祖母のな〜んにも無かった台所が理想なのでしょう。

この祖母というのは母方の祖母で

下町で一人暮らしをしていました。

もう一人の父方の祖母は裕福で 遊びに行けば

おこづかいもたっぷりくれたでしょうが。。。

(今思うともっと行っておこづかいもらえばよかった。。。汗)

。。。何故か私は母方の祖母が好きで入り浸っていました。
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祖母のアルバムから出てきた幼い私。。。

一番気に入っている写真です。

お人形を抱っこして 下駄をはいてますね。今と同じ(笑)

私もかれこれあの頃の祖母に近い年になり

こんなことを懐かしく思い出します。。。


昭和30年代のある日  小学生だった私は 

祖母の家で内職の手伝いをしていました。

ブリキでできた小さな自動車。。。その底にある

金具の爪をペンチで曲げて固定するお仕事です。

今では骨董屋さんなんかに行くと目玉が飛び出そうなお値段の

あの昭和レトロなブリキのおもちゃ。。。

とっとけば今頃ひと財産。。。てな野暮な話はともかく(笑)

それを手伝うのが面白くてはまっていました。

やればやるほどそれだけ祖母がラクになるし なんだか

いっぱし大人になったような気分でいたものです。

たくさん出来上がると 祖母はそれを大風呂敷に包んで

週に一度か二度 工場へ届けるのでした。

電車で一駅分ありそうな距離を 荷物を背中にしょって

歩いて届けていました。

祖母は祖父亡き後 なけなしの貯金をはたいて

小さな小さな一軒家を買いました。

昭和の暮らし博物館をミニサイズにしたような家。

ガラガラ戸の玄関を入るとすぐ板の間があって

そこには古い足踏みミシンが置かれていました。

あとは3畳間と8畳(6畳だったかな?)があり

押入れが一間と申し訳程度の濡れ縁がついています。

仏壇の上にはおじいちゃんとお姑さん つまり

丸髷を結った私のひいお婆ちゃん(美人)の写真。

毎朝欠かさずお水とお線香 ご飯をあげます。

高いところには柱時計があって 時々祖母は

「よっこらしょ」っと踏み台に乗ってネジを巻いていましたっけ。

仏様のあとはうるさく鳴いている猫のコウヘイに

朝ごはんをやります。(人間より先?)

家具といえば箪笥が二さおに鏡台、食器棚くらい。

押入れには布団や行李。

まるで落語に出てくる江戸長屋みたいです。

何年かしてテレビも加わりましたが 他には

何も無いので狭さも感じませんでした。

この頃は断捨離だとかシンプルライフだとか流行っていて

なんでもかんでも捨てちゃうそうで。。。

あ〜もったいない!

あの頃の暮らしにはそもそも捨てるものなんか無かったんです。

始めから買えませんから(笑)

典型的な下町気質の祖母は このちっぽけな家を

どこもかしこもピカピカに磨いていました。

そして一番奥が台所(だいどこ)

壁には長箒とはたきが下がり 

どこぞの店からいただいた大きなカレンダーが。

床は板が取り外せるようになっていて床下には

ひとかかえもありそうなぬか漬けの樽がありました。

祖母はこのぬか漬けを宝物のように大切にしていました。

毎日腕を深くつっこんで祖母がかきまぜると

なんともいえない香ばしい匂いがしたものです。

流しは石でできていて そこで洗濯もしていました。

使い込んだ洗濯板と大きな石鹸を覚えています。

木の蓋のお釜と流しの上の棚にある鍋やすり鉢

それだけがすべての調理道具でした。

冷蔵庫なんてありません。かわりに網戸の蝿帳です。

残り物や腐りにくい佃煮などはここに入れておきます。

都市ガスはひかれていたので鋳物のガスコンロが一つ。

マッチで火をつけるのが怖かった私は

祖母に教えられてこのコンロに火をつけられるようになり

料理の手伝いをするのも大好きでした。

その間祖母はかつぶしを削っています。

枯れ節でだしをとった味噌汁の美味しさが忘れられず

私も今同じようにかつぶしを削る毎日です。
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↑これ30年使っている削り器です。となりはレトロなお米入れ。

時には私は朝寝坊して、祖母がかつぶしを削る音で

目が覚めました。 すると祖母は「はいおメザ!」と言って

金平糖やらボーロのようなものを口に入れてくれました。

それから布団をたたんで、箒やハタキで簡単に掃除をします。

しばらくして、ぷ〜んと味噌汁の匂いがただようと

丸いちゃぶ台を出して お釜で炊いたご飯を

おひつに移して さあ朝ご飯。

おかずはメザシだったり納豆だったり鮭だったりしましたが

いつも必ずあったのが

例のぬか床から出したてのぬか漬け(おこうこ)!

それに海苔や梅干 大根おろしや青菜のおひたし。

考えると 今私が好きな食べ物は

あの頃おばあちゃんと一緒に食べたものばかり。
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↑同じように私の宝物も糠づけ。これも欠かさず食べています。

そして毎日夜中の12時頃になると 祖母は

縫い物をしながらなかばうつらうつらして

よく浪曲(なにわぶし)を聴いていましたっけ。

おばあちゃんがかけていたアメ色の丸メガネや

サザエサンのフネさんそっくりのヘアスタイル

大事に大事に使って年季の入ったお針箱を

私は一生忘れないでしょう。

「ちょくせつラーメン」「ぷらっちっく」「えべれーたー」

などのおばあちゃん語も(笑)

時には里見浩太郎を大川橋蔵と言い張ってたっけ。。。

そばで私は漫画を読んだり 祖母がくれたハギレで

パッチワークの真似事みたいな事をして遊んでました。

裁縫は学校で習う以前にこの祖母から習いました。

祖母は幼い頃家が貧しく 早くからお屋敷奉公に出され

あまり娘らしいお洒落ができなかったようです。

そのせいか赤いものが大好きで、赤い綺麗な包装紙や

ハギレなどはそれは大切にしていました。

そして。。。

おばあちゃんにはもう一つの宝物がありました。

それは。。。日当たりの悪い庭にただ一本だけあった

薔薇の木でした。

「コウシンバラ」という小輪の野薔薇ですが

それはごく最近になってわかったこと。

薔薇といえば交配種の大輪薔薇しか知らなかった私は

「コレは薔薇だよ」

とおばあちゃんが自慢げに言った時

「え?ウッソ〜」とか思いました。

ひょろりと頼りなさげに80cmほどの高さに育っていて

繊細な葉が茂っているだけで 蕾も何もついていません。

小鳥が種を運んできて自然に生えたのか

おばあちゃんが挿し木をしたのか思い出せませんが。。。

薔薇なら牧美也子の少女漫画に出てくるような

たっぷり花のついたツルバラでも植えれば良いのに

と私はいささか不満でした。

でもあんな薔薇は立派な門構えのお宅にしか無いことは

私にも幼心にわかっていましたので

猫のひたいどころか 鼠のおでこのような庭では

とってもムリだろうし

一人 内職暮らしでがんばっている祖母が

ちょっぴり可哀想な気もしました。

毎日買い物にでかける度におばあちゃんは

いたわるように薔薇に話しかけ 

幸せそうに目を細めていました。

せっせと米のとぎ汁やら玉子の殻やらをあげて

葉っぱだけの薔薇の木を可愛がっていました。

その様子があんまり楽しそうで

本当に嬉しそうだったので、私も早く咲かないかな〜

と待ち望むようになっていました。

けれども気難しい薔薇はなかなか咲いてはくれません。

「薔薇。。。まだ咲かないねぇ〜」

「そうだね。。。そのうち。。。」と祖母。

私が行かない時はいつも一人ぼっちの祖母の

ささやかな生き甲斐は 猫と この小さな植物だけ。。。

そのくらいは察しがついたので

私もあまり尋ねるのも気がひけて

やがて薔薇のことはすっかり忘れてしまいました。

そして数ヵ月後か一年後か忘れましたが、

久しぶりに遊びに行ったある日

おばあちゃんを驚かそうと庭の方から回った私は

木戸をあけたとたん、思わず立ちすくみました。

あの頃はまだブロック塀などは無く

質素な板塀で囲まれた なにやらジメっとした庭先。。。

祖母がこまめに雑草を抜いて 

手入れが行き届いているけれど

ヤツデやツワブキ ユキノシタやリュウノヒゲみたいな

日陰向きの草花が多い 薄暗い庭のまん真ん中で それは

奇跡のように 誇らしげに咲いていました。

たった一輪の

赤ちゃんの手より小さい

真っ赤な 真っ赤な 薔薇でした。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

コウシンバラは中国原産の野薔薇で

日本へは江戸時代以前に渡来して盛んに栽培されました。

現在の多くの園芸用大輪薔薇の祖先でもあります。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。

相変わらずお粗末な想い出話でしたが

ほんのちょっぴりでも 心のすみっこが

あったまってもらえたら 私も幸せです〜♪

今年も皆様の暖かい応援のおかげで

なんとか無事に過ごす事ができました。

どうぞどちら様も 良いお年をお迎えくださいね。

来年はもっと作品作りをがんばりたいおとめです〜♪
posted by おとめ at 11:11| Comment(8) | 猫と石蹴りとリリアンと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月30日

乙女心で年も暮れ。。。

〜年末のごあいさつに代えて〜
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当時の子供着物の布↑

昭和30年代のある日

学校帰りに本屋へ立ち寄った私は

家へ帰るなりすぐに自分の部屋へ。。。

セーラー服を着替えるのもそこそこに

読みふけったものは

週刊少女フレンド

ちばてつやの「ユキの太陽」の大ファンで

毎週の連載が待ちきれませんでした。

おてんばでお茶目な

ユキのキャラクターが大好きでした。

当時の勉強机↓
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壁には 苦労して作った

ビートルズの切り抜き帳が下がっています。

ジョン・レノンの似顔絵も

大事なオリンパスカメラも。。。

あ!インクつぼなんかもありますね〜。

本棚には学校の友達にすすめられて買った

秋元書房の「15才の頃」

アンネ・フランクを気取って

日記もつけていました。

アンネ・フランクの写真はこちら

この後しばらくして机の上には

おこづかいをためてやっと買った

ウエディングドレス姿のバービー人形もありました。

それから たびたび飾ったのは

黄色いフリージアの花。。。

今でもあの花の匂いをかぐと

あの頃がまざまざと蘇ります。

私が少女から乙女になろうとしていた

12才〜15才くらいの頃

やっと借金苦から開放された父親は

文房具屋をたたみ

会社経営を始めていました。

母親はパン屋をやって応援。

その開業については父の長兄が

某パンメーカーの社長と幼馴染みだったためか

何かと便宜をはかってくれました。

裕福な両親からの恩恵が薄かった父への

伯父のせめてもの施しだったようです。

私はよく店番をしていました。

店のラジオから流れていたのは↓


Non ho l'eta 夢みる想い 1964



究極の乙女歌 「夢見る想い」

歌っていたのは16才の

ジリオラ・チンクエッティ

店のカウンターに頬杖をついて

うっとり聞き入っていましたっけ。

あれからかれこれ半世紀近くがたち

大好きだったお人形も本も みんな

夢のかなたへ消えてしまったけれど

この曲だけは今も耳に残っています。

たぶん この先も一生大好きな曲です。

店先にはアルミの枠がついた

ガラスのショーケースが並び

ばら菓子が一杯入っていました。

私はお菓子をスコップで掬いながら

計りにかけては 外の道路を

ちらちら見ていました。

毎日お店の前を自転車で何回も通る

酒屋でアルバイトをしていた男の子に

恋してしまったのです!

ニキビ顔で手足がやたら長い子でした。

まさにあばたもエクボ(笑)

コーラが出始めたのもこの頃。

となりの中華屋のお兄さんが

毎日のように飲みにきました。

「今日はペプシにする?」と母親。

「いや、あれは甘いから

やっぱコカコーラでいいよ。

ドクターペッパーよりマシだけど」

なんていう会話が。

栓抜きを出そうとする母親より先に

引き出しの取っ手でプシュッと

かっこよく栓をぬくお兄さん。

ぜったい裕次郎を気取ってたな あれは。

ハンバーガーはまだまだ先の話。

母親はよくドッグパンに芥子を多目に塗り

いためたキャベツとハムをはさんだものを

売っていました。

今でもあの味が懐かしくて作ってみます。

美人だった母親も もう83才。。。

誰もが

貧しくても 楽しかった と言う

昭和30年代。

毎年 大晦日が近づくと 何故か

あの頃を思い出します。

思えば今の私の原点もあそこにある

という気がします。

自分の部屋といってもドアもない畳の部屋

隅っこの半畳ほどをカーテンで囲み

「瞑想コーナー」を作って

一人になりたい時にこもりました。

物が今のように溢れていなかったので

ありあわせの物で

あれこれ工夫しての飾りつけも楽しかった。

物は少ないほうが かえって幸せ

というのを教えてくれた時代。

手芸が大好きで

かぎ針でモチーフを編んだり

ビーズのがま口を作ったり

お人形を作って お友達にプレゼントしたり。。。

ジュニアそれいゆは過去のものとなり

かわりに「手芸の友」が創刊されました。

家の中には5,6匹の猫がウロウロしてました。

私は猫のヒゲをひっぱりながら

たくさんの本を読み たくさんのことを考え

たくさんの音楽を聴き たくさん笑い

友達とたくさんの映画を見ました。

飼っていたお母さん猫の「ドン」↓
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海外文通というものが学校で流行り

私も世界中に10人以上のペンパルができ

毎日のように海外から手紙が。

英語の勉強にも大いに役立ちました。

そんなこんなの 私の昭和30年代。。。

とても楽しかったけれど

一方では 始まったばかりの

人生というものにとまどい

時には悩み 傷つき

泣きました。 

今。。。つくづく思うに

人生がわかったようで

まだまだ 何もわかっていない

あの頃と全く変わらない

自分がここにいます。

アンネ・フランクは15才で

亡くなってしまったけれど

私はこうして生きていて

ほぼ2年に亘る夫のがん治療を始め

あれこれあったけれど ノー天気療法で

なんとか楽しくやってこれました。

。。。。。

人は。。。 思い出の中に 

辛かったことより

楽しかったことの方を見ると言います。

ならば

年を重ねることも 

きっと楽しみなこと。。。ですね。

皆様 今年も大変ありがとうございました。

毎日の応援クリックや

優しいコメントの数々には

本当に感謝に耐えません。

お心のこもった

プレゼントやカードまで下さった方々には

心苦しい限りです。

年末ぎりぎりまで主人のことなどで多忙につき

まだお礼もできず大変申し訳ありません。

年賀状も書けないありさまで。。。(汗)

来年早々また 治療が始まりますが

乙女力でがんばります。

そして もっともっと創作がしたいです!

皆様もどうぞ良いお年をお迎えくださいますよう

心からお祈りしております。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日も最後までお読みいただきありがとうございます♪
posted by おとめ at 12:20| Comment(8) | TrackBack(0) | 猫と石蹴りとリリアンと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月21日

母の家出と藁ぐつ

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グッド(上向き矢印)雪ん子のブローチ

ほっぺもお手々も真っ赤です。

ハア〜と息をかけて。。。

お顔が豆粒大なので

描くの苦労しました(汗)

表情出てるでしょうか〜?

。。。。。

昭和30年代のある夕ぐれ 

ふと気がつくと 私は母親と

雪国へ向かうSLに乗っていました。

父と母が派手なケンカをして。。。

θ\( ・_・) スリッパ飛ばし( ・_・)ノポイ θ(x_x)いてっ!

とうりゃぁ!!o(・ロ・)○()o×)/ばきぃっ!!

。。。

母が私を連れて家出をしてしまったのです。

20才そこそこで私や弟を生み

舅、姑、小姑の一族郎等に囲まれて

父の書店経営を手伝い

従業員にも気を使い

子供が小さいうちは

店を閉めても

私の手を引き 年子の弟をおんぶして

銭湯へいく毎日。。。

朝は本の入荷があるので

まだ暗いうちに起床

家事 育児にも

ほとほと疲れていたので

日頃のうっぷんが爆発したのでしょうか。。。

らいだぁぁぁぁ きーっく! \\(0\0)┌θ☆(#/__)/グヘッ

。。。

ちょうど晩秋の時期だったと思います。

私はまだ小学校の低学年。

見なれない窓の景色や

蒸気機関車の巨大な煙を見ながら

私ははしゃいだ気分でしたが

母は向かいに座った女性と

一言二言世間話をかわして

あとは押し黙っていました。

そのうちに母の膝に頭をのせて

眠ってしまった私。。。

次に思い出すのは

たどり着いた母の姉の家で食べた

おいしいお米のご飯。

なんだかお腹がペコペコだった私は

「こんなにおいしいご飯が食べられていいな〜

この家の子になりたい!」

と思ったものです。

それから 

優しい伯父さんが釣ってきて

囲炉裏で焼いてくれた 川魚の味

やたらしょっぱいけど 

とても味があって

「川で釣りが出来ていいな〜

囲炉裏があっていいな〜」と

私はうらやましくて仕方ありませんでした。

年下の従妹とすぐにうちとけた私は

一緒に庭の柿の実を取りました。

棒でたたいたのか 拾ったのか

覚えていませんが とにかく

鈴なりの柿はとても甘くて

忘れられない味でした。

「毎日こんなに柿が食べられていいな〜」

とわたしはまたもや羨望のため息。

それにしても

どうしてこう食べ物ばかり

覚えているのでしょうか(笑)

(>▽<;;

子供の私には

大人達が何を考えていたのか

全く知る由もなかったのですが

伯父と伯母のさりげない心遣いで

目が覚めたのか 数日で

母は私を連れてもどりました。

それから 数ヶ月か何年かたってからか

覚えていませんが

伯母が従妹と弟の写真を送ってきました。

小さな白黒写真を

今でも鮮明に覚えています。

背景は真っ白な雪景色。。。

そして二人は

可愛らしい雪ぐつ(藁ぐつ)を

はいていました。

それを見た私は またもや

「こんなに雪があっていいな〜

藁ぐつはけていいな〜〜」と

心の底から羨ましく思ったのでした。。。

(雪国の人の苦労もしらずに)

翌年妹が生まれ

それからというもの

母は金輪際 家出はしませんでした。

伯父も伯母も もはや

この世の人ではありませんが

懐かしい雪国での体験は

今でも鮮明に焼きついています。

特に食べ物が。。。(笑)

。。。。。

そんな遠い日の事を思い出しながら

雪ん子のブローチ作ってみました♪
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グッド(上向き矢印)裏側は雪の結晶で

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

今日もお読みいただきありがとうございます。

posted by おとめ at 21:46| Comment(7) | 猫と石蹴りとリリアンと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月24日

蕗と美少女

またまたお久ぶりです。

(*_ _)人ゴメンナサイ

これを借りている間に↓
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グッド(上向き矢印)猫の手
(うちのはいささか毛むくじゃらです)(笑)

いつのまにか

すっかり春めいてきました。。。

そろそろ八百屋さんの店先に

蕗が並ぶようになりましたね♪

蕗のつくだ煮は私の大好物!

毎年作ります。それというのも

みずみずしい蕗を見ると思い出すのは。。。

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となりの美少女、美奈子ちゃん(仮名)のこと。

昭和30年代のある日。。。

美奈子ちゃんと私は

真っ黒でピカピカの

巨大な黒豚に追いまわされて

江戸川のほとりを

死ぬほど逃げ回っていました。

。。。。。


美奈子ちゃんの家は雑貨屋でした。昔の言葉でいうと

万屋(よろずや)で、日常使うものを色々売っている

細々と商売している店。

いつもお母さんだけが店番をしていて、

お父さんの姿を見たことはありません。

うちはそのとなりで

しがない文房具屋をやっていました。

父親がその頃事業に失敗し

仕方なく家族を食べさせるため

細々と始めた商売でした。

父の実家はかなり裕福な商家でしたが、

六男坊だった父親は両親からの援助はほとんど

受けられずいつも苦労していました。

昭和40年代に入り

日本が高度成長期を迎えて

一家の生活がやっと安定するまでには

まだまだの頃でした。

我が家も隣もけっこうな貧乏暮らしでしたが、

あの頃の庶民は皆こんなものでしたね〜。

。。。。。

「ねえ、川へ行くけど一緒に行く?」と

美奈子ちゃんが誘いにきました。

私は川向こうの小学校で

美奈子ちゃんとは違う学校でしたが

帰ってくると毎日2人で遊んだものです。

一緒に江戸川のほとりへよく行きました。

あの頃はまだまだ自然が残っていて

釣り糸をたれれば

フナやどじょうなどがけっこう釣れたらしいです。

春にはつくしや野いちごなどが

そこらへんに一面顔を出していました。

けれども。。。

鉄道の高架下には「バタ屋部落」と呼んでいる

今でいうホームレスの人々の集落もありました。

戦争で焼け出されたのか、

畳二帖くらいのスペースに

掘っ建て小屋をたて、入り口には

むしろが下げてありました。それが、ずっと

10数軒もつらなっていたのを覚えています。

美奈子ちゃんと私は

その人達が飼っていた途方もなく大きな黒豚に

追いまわされていたのでした。

逃げ惑いながらもふと豚の顔を見ると

するどいキバまで生えているようでした。

ああ〜〜〜恐かった〜〜〜

私達は野苺をさがしにきたのですが

どこでどう豚の機嫌をそこねたのか

あんなに怖い思いをしたことはありません。

とっさに私達はそばのうっそうと繁った

蕗の葉陰にひっそりと隠れていました。

美奈子ちゃんはその場所を良く知っているみたいでした。

やっと大人しくなった豚がバタ屋部落にもどり

ほっとして、しばらくすると

美奈子ちゃんは蕗を摘み始めました。

私も蕗をつむのが楽しくて一杯つみました。

美奈子ちゃんが「これ、おいしいんだよ」と言ったので、

一層励んでつみました。

その蕗を一杯もって

美奈子ちゃんの家に行くと、お母さんがとても

喜んだのを覚えています。

お母さんはどこか寂しげなお顔の

とても物静かな方でした。

美奈子ちゃんと私は2人で爪の先を黒くしながら

蕗の筋をとりました。

座敷にはまだ小ぶりの火鉢がありました。

美奈子ちゃんはおもむろに火鉢に小鍋をかけ

5cmほどに切った蕗を入れ、

水、醤油、砂糖を入れました。

ぐつぐつと煮え始め、鍋から良い匂いが

あたり一面にただよいました。

煮える間、二人はおはじきをして遊んでいましたが、

時折美奈子ちゃんは妙に大人びた手つきで

鍋の中をかきまぜました。

夕方でおなかが空いてきました。

美奈子ちゃんが蕗の味見をしたとき

私にも味見させてくれました。

じっとりと醤油の沁みた

その味と香りは忘れられません!

その蕗の佃煮だけが

美奈子ちゃんちの夕食のおかずでした。

あとは白いご飯だけ。

それだけ。

今こんな食事がどこにあるでしょうね。

でもあの頃はそれが現実でした。

うちへ帰ると。。。

おかずは冷奴ときゅうりのぬか漬けでした。

どっこいどっこいです(^^;)

美奈子ちゃんはよく銭湯で倒れました。

貧血です。

憂いをおびた大きな目を濃いまつげが取り囲んだ

やや色黒ではあるものの絶世の美少女でした。

手足は長くてほっそりし、その頃はやっていた

「乙女刈り」というヘアスタイルが

とてもよく似合っていました。

うなじのところを

短く刈り上げたおかっぱで、たおやかな

首筋が一層ひきたったのです。

私も真似をしましたが、

丸顔の私はまるでワカメちゃんでした。

(>▽<;; ははは。

一緒に銭湯の湯船につかりながら

私は小学校のもう高学年なのに

洗濯板のような自分の胸を恥じ、

美奈子ちゃんのどこか大人びた

美少女ぶりに憧れていました。

それからしばらくして、私達一家は

引越しをし、美奈子ちゃんとは疎遠になってしまいました。

でも蕗を見るたびに、味わう度に、そのおいしさを

教えてくれた美奈子ちゃんを思い出します。

空腹にまずい物なし。。。てか〜〜〜

。。。。。


♪「夏がくれば思い出す」のメロデイーで♪

蕗を煮ると思い出す

となりの美少女、美奈子ちゃん

野原でいつも遊んだね

野いちご、つくし 摘んだよね

蕗がいっぱいホラ 生えている

あっちもこっちも 川のほとり

今夜のおかずは決まりだね〜(笑)

はるかな昭和 遠い空♪

。。。。。

つまらない思い出ばなし

読んでいただきありがとうございます

m(_)m


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あの頃の作り方で作った蕗の佃煮(きゃらぶき)
あまりのおいしさにご飯を三杯おかわりしてしまいました。

ダイエット台無し!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつも応援ありがとうございます。


posted by おとめ at 22:39| Comment(19) | 猫と石蹴りとリリアンと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする